幽霊も悪くはない
1 <死の歌い手>ジャーメイス
「この私が支配する<暗黒魔洞>にのこのこやってくるなんて、全く、おーっほっほっほっほげっほげっゲホガホ……!」
永遠の闇。身の竦むような冷気。
「く、くるしい、だれか水、水っ……」
生臭く澱んだ空気。聞こえてくるのは、壁面を滴る水滴の音ばかり。
「……げほっげぼっ……(ああっ気管に唾が入って、ホント息が出来な……)」
そして再び、静寂が全てを包み込んだ……。
−−−<完>−−−
「……勝手に殺さないで頂戴っ!」
それは失礼。
だが、仮にもこの<暗黒魔洞>の主を名乗る者にしては、あまりにも不様な登場の仕方だと思って。
「うるさいわねっ! あんたこそユーレイの分際で生意気なのよっ!」
それを言われると困る。私が生きて(幽霊だから、本当はもう死んでいるのだが)いられるのは、彼女が放つ闇の力の恩恵に預かっているからだ。
彼女は私の主、「死霊使い」だ。名前を……。
「何固まってんのよ。早く言いなさいよ」
分かっているとも。名前はジャーメイス……。
「……<死の歌い手>ジャーメイスよ! まさか、ご主人様の通り名を忘れていたのではないでしょうねえっ? 闇と真実の恐怖に満ちた我が名前をっ!」
ほのかに青ざめた光を放つ闇色の髪。
その瞳に射抜かれたとたん、動けなくなってしまいそうなほど美しく、凍えそうな眼差し。
まるで二粒の宝石のような色をしているにもかかわらず、訪れる者に平等な<死>と<絶望>を与える唇。
そして、均整の取れた身体を包む銀の飾り、薄衣のヴェール。彼女の姿を一目見て、生きながらえた者はいない。
……これぐらい褒めておけばいいか。
「いやらしい目で私を見るんじゃないわよ、このスケベユーレイ!」
……。
こんなバカ女は放っておこう。
「何抜かしてんのよこのアホンダラバカマヌケスカンピンオンドリャ……」
私は、先ほども言ったが、幽霊である。生きていたときの名前は、よく覚えていない。
ジャーメイスが言うには、かつて、この洞窟にある財宝を狙って侵入してきた愚かな人間だったらしい。今では立派な闇の住人だ。従って、こんなバカ女でも私の魂を支配している以上従わないわけにはいかない。それに……。
「だから、やらしー目で見ないでっての!」
……もういい。
それよりジャーメイス、なぜ笑っていたのだ?
「いい加減にそのデカイ態度、改めなさいよっ! あんたなんか、その気になれば永遠の地獄の最下層へ超特急でぶち込めるんですからねっ……」
だからいつでも好きなようにしてくれと言っている。私の魂はすでにあなたのものだ。
「えっ?」
……ほら。ほら。私はもう、覚悟が出来ているぞ。まだか?
「う、うるさいっ! あんたみたいな口答えするユーレイ、本当に……っ!」
ジャーメイスは玉座から立ち上がり、めちゃくちゃに腕を振り回した。
貴石で作られた腕輪が澄んだ音を立ててぶつかりあう。そのたびに私はあおられてのけぞりそうになりながら、嵐が過ぎ去るのをじっと待っていた。
やがて、ジャーメイスはぐったりと疲れて、また椅子に戻った。……体力のない女だ。
まあ、それも仕方がない。日光にも当たらず、ずっとこんな洞窟の奥まった場所で、魔物や邪霊どもをこき使いながら坐っているだけなのだから。
たまには運動をしろ。それと、栄養についても、あれこれ考えなければだめだ。一日にひとつは、なにか果物を食べるといい。ここは暗いからよく見えないが、野菜を取らないと肌が老化するという話を聞いたことがある。気をつけた方がいいのではないか?(以下くどくど続くので省略)
「あ、あ、あんたねえ……っ!」
そうだ、ひとつ忘れていた……ジャーメイスは……体力はないが、無限の魔力を持つ、ということを。
霜が壁を覆い尽くした。それはすぐに、甲高い音を立てながら、透き通る厚い氷となって張り巡らされていった。
玉座を中心に、みるみるすべてのものが凍り付いていく。
ジャーメイスの吐く息が、白く、立ち上る。
まわりを見渡した。私自身は霊だから、寒さには影響しない。
こんなことをしてダメージを受けるのは、ダンジョンを構成する岩盤そのものだ。いったい、何を考えているのか……。
氷が溶けたら、天井が割れてくずれてしまうぞ?
「分かってるわよ、このあんぽんたん!」
ジャーメイスは泣きそうな声で怒鳴った。
「あんたがしょうもないことばっかり言ってっからよ!」
私のせいなのか?
「この……バカユーレイ!」
理解できない。論理が破綻している。
<死の歌い手>と称せられ、暗黒魔法の頂点を極めた邪霊使いがこんなことぐらいで錯乱しているようでは困る。上がこれでは、我々のような下っ端はいったいどうすればいいのか……。
「それどころじゃない、侵入者がいるのよ」
ジャーメイスはカチンカチンに凍った玉座に座れず、うろうろとしながら言った。
ほらみろ、言わないことではない……毛皮がハリネズミのように逆立って、ごわごわになっているではないか。執事の鬼神を呼んで取り替えさせようか?
「バカ、後でいいわよ……かなり強いみたい。何者かしら?」
ジャーメイスは耳を澄ますような仕草をした。
<暗黒魔洞>のすべての通路には、彼女の目であり、耳である使い魔が潜んでいる。通路にはペットたちが(いわゆる地獄の生き物だが)放し飼いにされ、財宝という噂に引きずられたエサが迷い込むのを待っているのだ。
おそらく侵入者は、ペットたちを無碍に斬り殺しながら進んでいるのだろう。
普通に歩いても、最下層にある玉座の部屋にたどり着くには数時間かかる。下へ降りれば降りるほど、ペットたちも賢くなり、ジャーメイスに忠実なナイトぶりを発揮する。いくら人間といっても、数十人がかりで突き進んでこない限り、ここまでたどり着くことはできないはずだ……。
なぜか、ジャーメイスの視線を感じる。私は振り返った。
何か用か?
美しい邪霊使いはかぶりを振った。腰まである黒髪が揺れている。心なしか、不安そうだ。
見てこようか。
私の提案を、なぜかジャーメイスはきっぱりと却下した。
「できないくせに」
何かを見たのだろう。ジャーメイスの表情に、狡猾ないつもの笑みが戻っている。
今度は私は不安になる番だった。どんなに闇から祝福された存在とはいえ、ジャーメイスはどこか抜けたところが……。
「下らないこと言ってんじゃないわよっ! だれが抜けてんのよ!」
……聞こえていたのか。
私は霊体をすこし変質させ、生前の記憶にある戦士の姿を取った。手にした剣は身の丈よりも長く、ぐいと湾曲して、青白い炎を滴らせている。
ふと、自分が何者だったのか、ということに注意が向く。
私が今、ここにいるのは、生前に、ジャーメイスと会っているからだ。この洞窟から出ることを許されないのは、この部屋で死んだからだ。
それでも、闇の祝福を得て生きながらえているのは、(くれぐれも申し添えて置くが、私は幽霊である)、ジャーメイスが、手元に置いておこうとしてくれたからだろう。
私は、本当に、ジャーメイスの言うとおり、財宝を探しに潜り込んだだけの貧相な墓泥棒だったのだろうか。彼女と生活を共にするようになって、この<暗黒魔洞>を隅々まで歩いて感じたことは、ここが普通の人間には突破できない死の罠に満ちている、ということだった。
……ということは、案外私も捨てたものではなかったりして。
「調子に乗ってると本当に除霊しちゃうわよ」
……それはタイヘン困る。先ほどのあれは冗談だ。
私は再度、侵入者の様子を探りに行きたい旨をジャーメイスに告げた。ジャーメイスの眼は、銀色にたゆたう力で満ちあふれ、星のように燃え輝いていた。
こんな目をした彼女を見るのは、初めてかも知れない。
「いいわ、見てきなさい。そのかわり、奴等の口車に乗ったりしないで。僧侶がいるかもしれないから、解呪されそうになったら逃げてくるのよ。分かったわね」
分かった。
魂を縛り付ける力が弛む。私はジャーメイスを見つめた。
どんなに口が悪くても、どんなに性格が悪くても、どんなに高圧的な態度に出られようとも構わない。私は、私が望んだ主に仕える。
「……早く行きなさいっ!」
赤くなってないか、ジャーメイス? 熱でもあるのではないのか?
「……バカユーレイ! 早く行けっ!」
……何故怒るんだ? 全く分からない。
2 <銀の血>を持つ巫女
私は凍り付いた洞窟をゆっくりと昇っていった。かわいそうに、薄っぺらい皮膚しか持たない魔物たちは、寒さの余り壁に身を寄せ合って、悲しげな鼻声をあげ続けている。子供を抱えた母親魔物など、できるだけ子供達を寒がらせないよう、堅く抱きしめているものもいた。
まったく、直情径行で出たトコ勝負な主人を持つと、下の者は本当に苦労するな。
私は使い魔を呼んだ。コウモリがぱたぱたと頭の上を旋回する。こいつも寒さには弱いはずだが、よく頑張っている。
……侵入者の数は四人。
四人か。私は笑みを浮かべる。そういう命知らずな奴等には、現実の厳しさを教えてやらなければならない。
……戦士が二人。魔法使いが一人。僧侶が一人。
黄金の組み合わせだ。
……恐ろしく強い。怖い。敵わない。
分かった。他のみんなにはもう大丈夫だと言ってやれ。ここから先は我が剣と女王の名において絶対に通さない。
コウモリはきゅうきゅうと安心したように鳴いて飛び去った。
と格好をつけて言ってはみたものの、少々不安だ。
私は通路が広くなった場所で立ち止まった。
耳をすます。ジャーメイスのペットたちが心をかき乱す悲鳴を上げて逃げまどう気配が伝わってきた。どうやら、相手はかなり残虐な人間のようだ。
通路を駆け戻ってくる足音が聞こえた。
口から牙を五十本ほど、にょっきりと可愛らしくはみ出させ、顔中えくぼだらけにした愛らしい姿のヘルハウンドが、尻尾を巻いて駆け寄ってくるのが見えた。すでに体中傷だらけで、息も上がり切っており、全身血まみれになっている。
ヘルハウンドは、私に気付いてどうにか元気を取り戻した。鼻面をなでてやると、毛のない尻尾を嬉しそうにぶるんと振った。たぶん、体重は私の三倍以上あるだろうが、(正確に言うと、生きていた頃の私と比べてだ)、本当のところ、これほど忠実で賢い魔物はいない。
前方に光が見えた。
私は目を細めた。人間たちの足音と、叫びかわす声が聞こえてくる。
ジャーメイスの命令を思い出す。
(……解呪されそうになったら即、逃げ出すこと)
ふと、声が止んだ。気付かれたようだ。まあ、どのみち、私は不意打ちをするような卑怯な幽霊ではないから、全然かまわない。
人間どもは、私の存在に気付いて叫んだ。
「……!」
残念だが、今の私に人間の言葉は分からなかった。
剣を抜き、人間どもを見下ろす。
先鋒は不格好な鎧に身を固めた戦士が二人。幸いなことに、呪われた武器は持っていないようだ。どんなにふりまわしても、単なる鉄の刃では、霊体をかすめることすらできない。
ということでこいつらはシカト。
魔法使いらしき男は、貧相な水晶玉の杖を手にして、雷を呼び出そうとしているところだった。
いいのか、足下が濡れているというのに? だが、呪文に気付いた僧侶が、あわてて魔法使いを止めた。
うむ、なかなか賢明な判断だ。
ところが、魔法使いは恥ずかしげもなく、続いて炎の呪文を唱えはじめた。
私はヘルハウンドに逃げるよう命じ、剣を構えた。呪文の詠唱をじっと待ち受ける。
ずいぶんとヘタクソな魔法だ。ジャーメイスの鋭い言葉に慣れた私には、うざったい以外の何物でもない。
火の精霊が空間を歪めて現れた。精霊も苦笑いしている。炎が杖に宿った。
拳ほどの大きさに膨れ上がったところで、火は、ようやくひょろっと杖を離れた。
……何だそれ……。
私は頭の中で一、二、三、と数え、剣を薙ぎ払った。かまいたちが炎をくるみ込んで、たちどころに火を消し去る。
洞窟は再び、薄暗い闇に戻った。
魔法使いは青い顔で私を見上げ、後ずさった。
何てこった。こいつ、まったくのド素人か? そんなに焦りを顔に出してどうする。バレバレだぞ。冒険者からハッタリとお題目を抜いたらタダの墓泥棒と同じ、という格言を知らないらしい。
つまり、こいつも敵ではない。
残るは僧侶一人だった。
だが、僧侶だけは侮れなかった。どんな下っ端でも、神の言葉を真似ることができるからだ。
僧侶は胸の前で手を結び合わせ、私を見上げていた。その目が驚いたように見開かれている。
怯えているのか?
細い滝のような銀の髪。薄い紫を帯びた瞳……女、だ。
何かしゃべっている。その声を聞いた人間たちは、そろって僧侶を振り向いた。
戦士たちがにじり下がっていく。どうせ、カネで雇われただけの用心棒だろう……魔法使いと僧侶を置いて、自分たちだけで逃げるつもりらしい。
何て卑怯なヤロウどもだ。そんなヤツは魔物の風上にも置けない。許せない。
戦士たちは、背中を向けて逃げ出した。
私はかぶりを振った。残念だが……それが”正義”というものだ。
ヘルハウンドが闇から駆け戻ってきて、魔法使いと僧侶の頭上を躍り越え、凄まじい咆哮を上げて戦士たちを追った。吠え声に悲鳴が混じり、みるみる遠ざかっていく。
魔法使いは、すっかり腰を抜かし、がたがたと震えていた。
……とはいえ、実のところ、私は少々迷っていた。
いくらジャーメイスの可愛いペットたちを惨殺してきた人間とはいえ、泣きそうな顔をし、完全に戦意を喪失した魔法使いに自ら手を下すほど、冷血な幽霊ではない。
そうこうしているうちに、ヘルハウンドは満足そうなげっぷをしながら戻ってきた。
それを見た魔法使いは、いきなり悲鳴を上げて失神した。
……おいおい、失神するのは構わないが、これからは周囲の状況を見てからにしたほうがいいと思うぞ。
僧侶はまだ、何かを叫んでいる。
その表情が妙に切羽詰まっているような気がして、私は不思議な気持ちになった。
(×x××……!)
言葉は理解できないが、表情は見れば分かる。
手負いの戦士が浮かべる、死を目前にした歪んだ顔とも違う。
何だ、この、感じ……?
なぜか分からないが、この邪悪な神に仕える僧侶を殺す気にはなれなかった。
私は、闇に身を紛らわせた。逃げた、のかもしれなかった。ヘルハウンドが、失神した魔法使いを育ち盛りなやんちゃボウズどもへのお土産にしてもいいかどうか尋ねてきた。私はかぶりをふり、僧侶と魔法使いを外へ追い出すように命じてから、ジャーメイスの元へ戻っていった。
「随分お優しいユーレイだこと!」
ジャーメイスは腰に手を当て、私の顔を見るなり怒鳴りつけた。
なんだ、まだ怒っているのか? ちゃんと追い払ってきたぞ?
「どうして殺しとかないのよっ! また戻ってきたらどうするつもり?」
どうして、と言われてもな。何だかそんな気にはなれなかったし。第一、あなただって人間なのだろう? 同類相哀れむと言うではないか。
「それとこれとは話が別だし、それに使い方だって思いっきり間違ってるわ、このバカユーレイ! あいつらは神に仕える者たちよ? 呪われた存在なのよ? あたしの可愛いペットたちを、怖い顔してるっていうだけで殺すような奴等なのよ! あんただって、たまたま今回は腰抜けの僧侶だったからよかったけど、神の言葉をぶつけられたら速攻で天国行きよ? 永遠に呪われて苦しみ続けるのよ!」
凍り付いた玉座の毛皮は、いつの間にか新しいものに取り替えられていた。
ジャーメイスはどすん、と椅子に腰を下ろし、苛立たしそうに足を組んだ。身体に吸い付くドレスの裾から、白い足がちらりと覗いた。
「やらしい目で見るんじゃないって言ったでしょっ!」
見られて困るのなら、そういうふしだらな格好をするな。それに、別に裸を見たところで、どうも思わない。
「……失礼ねっ! 何にも感じないっていうの! この美しく邪悪な闇の女王、<死の歌い手>の称号を暗黒の神から賜ったこの私にっ!」
そんなこと言われても困る。私は幽霊なのだから、少なくともまだ生きているあなたとは別世界の存在ではなかったかな。
あなたは私の主人であり、全てを抛ってでも守るべき女王なのであって、何か、そういった平等な感情を抱かせるような存在ではないはずだが。
「……バカユーレイ!」
またか。もういい。好きに罵倒するがいい。私は否定しない。
「……どうしていつもそんな……!」
泣いているのか?
私は、先ほどの僧侶のことを思いだして口ごもった。だが、ジャーメイスは再び顔を上げて私を睨んだ。
「どういうつもり?」
……は?
時々、こういうことがあるから困る。
ジャーメイスには、論理だって話をするという能力が欠けているように思う。
おそらく殆どのことを無意識に知覚しているからだろうが、だったら、なおさら、それと同じ能力が相手に備わっていないことぐらい、分かりそうなものだが。
いきなり、「どういうつもり?」とか言われても、それはこっちのセリフだ。どういうつもりとは、どういうことだ?
と、そのとき。
ヘルハウンドが、尻尾を巻いて耳を伏せ、頭を下げてすごすごと入ってきた。その後に、あの僧侶がいた。
まぶしかった。私は思わず、激しく燃えさかる輝きから目をそらした。
「どういうこと?」
ジャーメイスが怒鳴った。ヘルハウンドは飛び上がって逃げ出していった。
だが、まぶしさは一瞬だった。ジャーメイスが祝福してくれたおかげで、私は、光に吹き消される寸前のところを救われ、物陰に隠れることが出来た。
氷に包まれた玉座の間に、暗黒の帳が降りた。闇の中、先ほどの僧侶の姿だけが、仄かに白く輝いている。
「愚かな娘ね」
ジャーメイスは妖しく微笑んで見せた。僧侶は引きつった顔で何かを答えたが、やはり私には聞き取れない。
「誰それ」
艶めく瞼墨を引いたジャーメイスの流し目が、僧侶を冷たく捕らえた。
「……お前は、神の名の下に、その男を滅ぼしてやることが幸せにつながることだと、そう言うのね?」
銀に燃えるジャーメイスの瞳。
私は魂が吸い込まれていくのを感じた。
我が主。美しき邪霊使い。その力は魔界に通じ、意に従う魔王は数知れず……そして、その力ゆえに、孤独と闘い続けてきた、たった一人の支配者。
すべてをかけてでも守るべき、至高の存在。
私は剣を抜いた。
僧侶の顔色が変わるのが分かった。飽きもせずに、同じ言葉ばかりを繰り返し繰り返し、叫び続けている。
だが、聞こえない。
私は軽く振り返って、ジャーメイスの命令を待った。
また、僧侶の目から、水が垂れた。
ジャーメイスは好きにしてよい、という仕草をした。私は剣を振りかぶった。
銀の目。
銀の髪。
悲鳴。
僧侶の魂をまっぷたつに断ち切った、と思った瞬間。
銀色の血が飛び散ったように見えた。
一瞬、立ちこめる光に視界を失う。私は僧侶の姿を探した。手応えはあった……だが……。
ぞっとする<神の言葉>が聞こえた。マネではない、本当の<言葉>が。
「神の名において、私の身体に宿り、そして目覚めなさい……ジェノン!」
3 <皆殺し>と呼ばれた悪魔
俺は、銀の血を頭から被って、悶え苦しみながら、全身に回った闇の毒を吐きだした。
どういうわけか、意識が僧侶の身体に入り込んで同化していた。降霊されたのだ。俺はぜいぜい言う喉を押さえ、掠れた目で、目の前にいる女を睨み上げた。
醜悪な顔をし、下品な化粧を塗りたくった化け物女……思い出した、こいつは……歌とは名ばかり、地獄の鬼の歯ぎしりみたいなクソ念仏を唱えやがる女妖術使いジャーメイス……!
「てめえ、こんちくしょう、この俺様をよくも……」
俺は唾を吐き、こぶしで口を拭って、よろめきつつ立ち上がった。ついさっきまで、あんな女にホイホイ付き従っていたのかと思うと、気持ち悪くてヘドが出そうだった。
今度こそ、ぶち殺してやる。
俺は、全てを思い出していた。
<皆殺し>のジェノン……それが、俺だ。
金をもらって、そこらじゅうに湧き出す魔物をぶち殺して歩くのが商売だった。あの時も、鼻水垂らした国王に泣いてせがまれ、二千枚の金貨を前金にかっぱらい、<暗黒魔洞>へやってきた。
サディアに会ったのは、この洞窟に入ってすぐの場所だった。腐った水たまりを相手にひんひん泣いていたところを、奴等の仲間と勘違いして、そのまま襲ってしまったのだ。
ひん剥いて事を済ませ、さぁて殺そうと思ったときになってやっと、相手が僧侶だと気付いた。
暗かったせいもある。俺が聞く耳を持たなかった、という解釈もあり得るだろう。
つまるところ、俺は悪くなかったし、サディアも悪くなかったはずだ(それの証拠に、イイ声で泣いていた)。神様には、洞窟に立ちこめる悪意のせいだということにしておけばいい。
殺生を禁じられているはずの尼がどうしてこんなところにいるのか、その理由を聞いて、俺は驚いた。
<死の歌い手>ジャーメイスの妹。それが、このアマ、サディアの素性だった。
どういうわけがあって、神と悪魔、それぞれの手先に分かれたのかは知らない。テメエの担ぐ神だけが正義だってえ偽善者ふぜいが何を考えてようが俺には関係ない。勝手に魔女狩りでもなんでもしてりゃあいい。要はカネさえもらえれば誰だって殺す。それがプロってもんだろう?
俺はサディアを最下層まで連れていってやると約束した。
もちろんタダではない。……禁断の果実ほど甘い、とはよく言ったものだ。
最下層へ到達するまでに、俺たちは数え切れないほどの魔物を殺した。流れる血で足が滑るぐらい、洞窟を奴等の死体だらけにした。
薄汚い血にまみれ、息苦しいほど生臭い空気を胸一杯に吸って、俺もサディアも燃えに燃えた。
そして、最下層、この部屋で。
俺は、ジャーメイスの足下にくずおれた……うっとうしい馬鹿笑いに続いて、げほげほと咳き込む声を聞きながら。
「クソババア、ブッ殺してやるァ!」
とりあえずサディアに乗り移ったものの、この腐れアマはどういうつもりか、身を守る剣ひとつ持っていなかった。
まあいい、少なくとも<銀の血>がある。神に愛された者だけが手にする、聖なる祝福。すべての闇を退ける曙光の輝き。
ジャーメイスの闇は、サディアに届かない。
おぞましい隈取りをした妖術使は、老婆のような足取りで後ずさった。
今度こそ、俺を殺し、いいように操っていた邪悪な魔法使いの息の根を止めてやる。
サディアの声が聞こえた。
(お願い、殺して。姉さんを殺してあげて……邪悪な魂に身も心も汚されつくした、あんな姉さんを見るなんてもう、忍びないから……!)
俺は部屋を見渡し、その悪趣味さに身震いしながら、目にとまったナイフをつかんだ。闇に呪われたナイフだったらしく、サディアの白い手がみるみる凍り付く。俺は嘲笑ってやった。しょせんは借り物の身体、サディアが苦しむだけだ。俺は痛くもかゆくもない。
「できるのかしら、お前に」
がさがさに割れた、ぞっとする声がジャーメイスの唇から漏れた。しわくちゃに朽ち果てた手のひらを俺に向け、蛇のように目を細める。
俺は、一歩、踏み出した。ジャーメイス最大の術は、死の歌だ。あのドおんちな歌さえ封じれば、勝機はある。そのためには、ヤツの喉に直接刃をぶち込んで、ひねり上げてやればいい。
「お前に私が殺せる?」
ジャーメイスの表情が変わった。
「思い出して」
(何をしてるの)
サディアが叫んだ。
(姉さんの言うことに耳を貸してはダメ。悪魔の弁舌に巻かれてはダメ。早く、殺して)
ジャーメイスはゆっくりと手を広げた。馬鹿でかい口がバクバク動いている。
俺はとっさに耳を押さえた。だが、ジャーメイスは歌わなかった。
「お前になら、殺されてやってもいいかもね。バカで融通が利かなくてオマケにお人好しなダメユーレイだったけど」
ため息のように呟く。
「そんな姿、見るの忍びないのはこっちよ。私は神じゃない……意にそぐわない者を排除するのは私の主義じゃない。こんな地の果てに引きこもって身を隠しているのに、それでもまだ、私を殺したいの?」
俺は歯を食いしばった。どういうことだ……妖術使いの声が、ふさいだ耳から忍び込んでくる……。
「……また一人ぼっちね」
ジャーメイスの手が伸びた。俺が握ったナイフを、ゆっくりと自分の喉へ引き寄せていく。
「殺しなさいな、ジェノン……お前の手で。私も、今すぐ、お前の元へ行くから」
(殺すのよ、殺せって言ってるでしょうが!)
焦燥に駆り立てられたサディアの声が耳の奥に響き渡った。
(今よ、今しかない! この妖魔を殺せるのは、今をおいて、そして、あなたをおいて他にはないわ。神と<銀の血>があなたを祝福する。早くこの女を殺しなさい! グズグズしないでさっさと殺れ! 何やってんの馬鹿!)
瞬間、ジャーメイスと暮らした穏やかな日々のことが脳裏を駆け抜けた。俺は吠えた。そんなものに何の価値がある。何の価値もない。呪われ操られて、いいようにこき使われていただけのことだ!
獣のように喚き叫びながら、ジャーメイスの喉へ力任せにナイフを突き立てる。
黒い、冷たい、死のように優しい眼差しが、俺をぐいと掴んだ。
ジャーメイスの唇が小さく震え、何かを呟いた。
その端から、赤い糸が滴り落ちる。
俺は、いや、サディアは後ずさり、ナイフを投げ捨てて、甲高く笑った。
ジャーメイスはよろめくように膝をつき、凍り付いた床へ長々と身を横たえた。
「やった、ついに、やったわ! 殺した……! お姉様、悪く思わないでね……ついでにジェノンも返してもらうから!」
ついでに? 何だそりゃ!
そう怒鳴ろうとした俺は、ジャーメイスの身体から魂が立ち上がるのを見て、息を呑んだ。サディアは、未だに大喜びし続けていて、これっぽっちも気付かない。
張りつめていた氷が、ゆっくりと溶け始めていた。ジャーメイスの魔力が途絶えたせいだろう。水滴が、ぽつり、ぽつりと、降り初める雨のように頬を打つ。
薄ぼんやりしたジャーメイスの影は、やたらと皮肉な笑みを浮かべていた。
4 小心者の幽霊
(ざまあみやがれ、てめえのお宝は全部、俺様がいただいてやる!)
俺はジャーメイスに向かって叫び、女妖術使いが長年かけて収集した呪われたコレクション、剣やら鎧やらが山積みになった隣の部屋へ突進しようとした。
だが、俺の思惑とは別に、サディアの身体は、別の櫃に駆け寄り、蓋をこじ開けはじめていた。
(おいこらてめえサディア、こんなくだらねえもん、どーでもいいだろ! お宝はあっちだ! <黒の剣>があるんだよ! <魂喰らい>が! あれさえあれば、俺は無敵になれるんだ……!)
「うっさいわねッ!」
僧侶は興奮しきった声で喚き散らした。
「だまんなさいよたかが幽霊の分際でウザすぎんのよ! 除霊するわよッ!」
僧侶は、重い石の蓋を押したり引いたり、その辺にある棒で持ち上げようとしたり、それはそれはあさましい努力を払いつつ、どうにか手が入るほどの隙間を作った。
その間にも、洞窟全体を氷で閉ざしていたジャーメイスの魔法は、その効力を失い続けていた。溶けだした水が足下を流れ、部屋の隅へ溜まっていく。
僧侶は櫃に手を突っ込んで、取れるだけの宝石を鷲掴み、引きずり出した。薄暗い洞窟が、陽炎の映し出す虹に揺らめき、輝いた。
「きゃああっ見て見てジェノン、すんごいステキ! いったいいくらぐらいの価値があるのかしら! いやぁんもう夢みた〜い! これ全部神様に差し上げなくてもいいよね!? せっかく悪魔殺したんだから、半分ぐらいはもらっちゃってもいいわよね?!」
僧侶の手から、掴みきれなかった宝石、金銀の粒が、ざらざらとこぼれ落ちて床に跳ね転がった。
(馬鹿な小娘)
ジャーメイスは声を潜めて笑った。
(今回も私の勝ちね)
氷によって押し広げられた微細な割れ目。その、打ち込まれたくさびのように岩盤を押し広げていた氷が、ジャーメイスの魔力が失われると同時に、溶けだしていく。
地中を縦横に掘り抜いた洞窟全体にかかる圧力が、いっせいに最下層の空間へむけて集中した。
無数の亀裂を生じた天井が、砕け散る。
俺と僧侶は、全世界が買えるほどの宝を目の前にしながら、落ちてきた天井に巻き込まれ、そのまま……。
「いい加減、目を覚ましたらどうなの、バカユーレイ!」
外は夜だった。
私はまた、自分が心穏やかな小心者の幽霊に戻っていると気付いて、少しばかり安堵した。よかった、また死ねたようだ(?)。
「目を覚ましたらさっさと私の身体を拾ってきなさいよ!」
拾うとはこれ如何に。
ぼんやりしていた私は、ジャーメイスもまた、青白い炎となってぷかぷか浮かんでいることに気付いてやっと得心した。まったく幽霊使いの荒い魔女だ。今は同じ幽霊のくせに。
「ふんぐるらは・まおれしあ・てれん・らさ・げげんぼぼ・ごんじょらま……」
待て。わかった。今すぐ行く。速攻で行く。だからその意味不明かつ素っ頓狂なブキミ呪文を唱えるのはやめてくれ。
そんなこんなで、崩れた洞窟の中へとすごすご戻ろうとしたとき。
やっとこさ這いだしてきたらしい<銀の血>を持つ僧侶が、うすぼんやりしたユーレイとなってみるみる立ちのぼり、こちらへ迫ってきた。
(今度という今度はもう本当に許さないんだからねいったいぜんたいどういうつもりなのよいきなり洞窟ぶっ壊すなんて物事には何でも順番とか因果関係とかそういうものがあるでしょお姉さまったら何考えてるの何も考えてないんじゃないのまったくバッカじゃないの!)
怒濤のごとく罵詈雑言を吐き散らし出す。よほど頭に来ていたのだろう。喚き散らすたびに頭の大きさが倍・倍・倍加していく。すでに人間じゃない。顔のお化けだ。このまま巨大化していったらいったいどうなるのだろう。ちょっと想像したくない感じだ。
「はしたないわよ、”清純派気取り”のくせに」
ジャーメイスが皮肉に言い返す。
けっこう、嫌みなところもあるらしい。
(きぃぃ何ですってぇ許さないわ許さないわ許すもんですかああああぶしっ!)
僧侶の顔がみるみる朱に染まり、さらに膨張したかと思うと。
ぼん、と音を立てて破裂した。
(ぎゃわぁぁぁぁぁ……!)
ぺらぺらの薄皮みたいなものが穴の開いた風船のようにくるくると舞った、かと思うと、突如吹いてきた風に巻かれて、お約束のごとく遙かな夜空へと消え去っていった。もちろん、星となったのは言うまでもない。
だがしかし。 結局どういうことなのか、さっぱりわからないのだった。
「鈍いわね、お前は」
ジャーメイスは適当な身体を見繕うべく、使い魔を空へ放った。
「ああやって何度も何度も……鬱陶しいったら……あれじゃまるで、単なるだだっ子じゃないの」
え?
「何が不満なのかしらねえ? 私がこんなにも強くて美しくて慎ましくて優しい闇の女王と呼ばれていることが、そんなに妬ましいのかしら」
ずいぶん変わった慎ましさだ。それで鼻につかない方がどうかしていると思うぞ。
「何言ってんのよ。わざわざお気に入りの家を壊してまで、あの子の顔を立ててやったんだから、これを妹思いと言わずして何というの? あの子が分かってないだけなのよ。まさに姉の心妹知らずね。ちょっと語呂悪いけど」
そう言われてみればそうかもな……いや、ちょっと待て。じゃあ、何か、私はただ、あなた方の姉妹喧嘩に巻き込まれただけ?
「まあ、大雑把に言えばあんたの役どころは、”当て馬”かしら」
何だとおいコラ。
「まあ、でも構わないじゃないの。<皆殺し>だなんて恐ろしい通り名で、あたしの可愛いペットちゃんたちを神の名の下に魔物だからってバンバン殺しまくるような極悪人でいたかった? そんなのいやでしょ」
確かに……あまり好ましい人間ではなかったかもしれない。
「そういうワイルドな奴、キライじゃないけど。でも、自分ではどう? 忘れたい? あんたみたいな悪党の魂って、けっこう高値で売れるのよ。最近は気の弱い坊ちゃん育ちの悪魔が増えて来ちゃってねえ……人間の<悪い心>を抜き取ってあげてるだけなのに、どうもあの子ったら、勘違いしてるらしくてね。
ま、そのおかげであんたは真人間、じゃない、真幽霊になれたんだから、ありがたいと思いなさい」
そういうものだろうか。うーむ。
私はジャーメイスを見つめた。
たしかに、そうかもしれない。
ジャーメイスはたぶん、生きていたときの私が心のどこかに隠していた望みを叶えてくれたのだ。血に濡れてきた手、罪を刻んできた身体、その全てを、記憶と共に永遠の彼方へと捨て去ってくれた。
……幽霊になって、彼女に仕えるという条件つきだったが。
だがそれもよく考えれば悪いことばかりではないような気がした。
くどくど言うばかりで、しもべのことなんかまるで考えもしない、自分勝手な主人かと思っていたが、案外そうでもないようだし……。
「何言ってんのよ、バカユーレイ! ユーレイの分際で、調子こいてんじゃないわよ! 毒抜きされた今が、あんたのスカタン人生の中で一番まともな時期なんだってこと、本当に分かってんの? もっと感謝されて然るべきなのよ? それをあれやこれやと……」
……ずいぶん口うるさいな。何かまた、気に障ることでもしたか?
「寒いだけよ! 悪かったわね!」
霊体は寒さなど感じないはずだが……。
私はもう一度、隣に浮かぶジャーメイスを見下ろした。
まだぶつぶつ言っている。なぜそんなに文句ばかり言うのか、私にはさっぱり分からない。私が何をしたというのだろう。この上もなく忠実なしもべとして尽くしているのに。
もしかして、案外私も捨てたものではなかったりして。いや、またそんなおこがましいことを言ってると、ジャーメイスに怒られる。やめておこう。
「ユーレイなんかに期待するほうが悪いのよね……そうよ、ユーレイなんて、しょせんこんなもんなんだわ……感情なんてないのよ……ああ、最悪」
何故に最悪……?
私は違うぞ。人間の時の記憶や感情が、如何に一方的だったか、ということも分かったし、それに、今は悪くない気分だ。
もう、二度とあんなことをしないよう、気を付ける。それでいいだろう?
「……もういい……」
ジャーメイスは嫌味混じりのため息を漏らした。
私は深く考えるのをやめた。
彼女を最も美しく輝かせるのは、闇だ。そして、幽霊もまた、夜の住人だ。
それ以上、何を望むことがあるだろう。
彼女のそばにいられるのなら、幽霊も悪くはない。
【完】
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